米英の歴史書は間違いだらけ「広開土王は新羅の支配者」「日本が韓半島南部に任那日本府を設置」(朝鮮日報)
米国ワシントンには、スミソニアン国立博物館が分野別に幾つもあります。少し前には、スミソニアンの国立自然史博物館に行ってきました。
スミソニアンが出版している歴史の本を買って読みました。20・21世紀の両世紀にわたるパクス・アメリカーナが世界史をどのように整理したのか、見てみたかったのです。
(中略)
そうした中、困惑してしまう間違いを見つけました。
スミソニアンの『歴史年表(Timelines of History)』の94ページは、このようになっていました。
「西暦370年、日本の侵略軍は韓半島南部の任那に植民地を作った(c. 370 Japanese invading force establishes a colony at Mimana in southern Korea)」
日本でも根拠のないものだと判明した「任那日本府説」を、歴史的事実であるかのようにそのまま記していました。
95ページは「393年、日本の大和政権が韓半島の新羅と百済を急速に制圧していった(The Yamato of Japan overrun Silla a Paekche, Korea)」となっていました。
一部の西側の歴史学者は韓国史について専門性が不足しているのではないか-という考えを抱きました。英国の代表的な出版社の一つでスミソニアンの本も出版しているDKが、英国で2022年に出版した歴史書も、見てみるとやはり多くの問題がありました。
DKの『世界史年表(Timelines of World History)』67ページ、西暦4-5世紀の部分を見ると「西暦404年、広開土、韓半島の新羅の支配者、日本の大和政権の侵略を撃破する(404CE Gwanggaeto, ruler of the Korean state of Silla, defeats an invasion from Yamato Japan)」と書いてありました。
ご存じの通り、広開土王は高句麗の支配者であって新羅の支配者ではありませんでした。しかも404年は、百済と倭による新羅への連合攻撃でした。倭の単独侵略ではありませんでした。
残念なことでした。このように韓国史について誤って記述した内容が、米国立博物館の書籍のみならず国際的な出版社の本を通して伝えられているからです。これらの本は市中の書店で、またオンラインの電子書籍として手軽に購入できます。広開土王を新羅の人物と書くというのは、やってはならない誤りではありますが、単純なミスだと理解することもできるでしょう。
しかし任那日本府説は、西暦4-6世紀に日本が韓半島南部を支配していたという根拠のない主張であって、日本の代表的な歴史歪曲(わいきょく)だと指摘されてきました。今では、日本の学界ですら破棄された学説です。
(引用ここまで)
スミソニアン博物館が発行している「Timeline of Histroy」なる書籍に、日本(倭)が朝鮮半島に侵攻した、との記述があると朝鮮日報がお冠。
言うても、別に「任那日本府」については「その名称は後世のものだけども、朝鮮半島南部に倭の勢力が一定数存在した」ことは歴史学者なら誰一人として否定しないと思います。
この記述、「c. 370 Japanese invading force establishes a colony at Mimana in southern Korea」──「西暦370年に日本は朝鮮半島南部の任那に植民地を設立した」とのものですが。
それぞれの学説によって大小はあれども、朝鮮半島南部に倭人の影響がなかったとすることはほぼないですね。
以前、
第2回日韓歴史共同研究で出された報告書にも、韓国側は「任那日本府など倭の影響は一切なかったか、あっても極小」くらいの話を出していましたが、日本側からは「当時の朝鮮半島南部には倭の影響があった」との論文が掲載されています。
その後、朝鮮日報あたりが執拗に「任那日本府はなくなったはずだ、日韓歴史共同研究で報告書が出ている」って話をしているのですが。
朝鮮日報「任那日本府はなかった、なかったと言ったらなかった」(楽韓Web過去エントリ)
「外交使節団だったとの説以外はすべて虚像」って言っているんですが。
ただの「外交使節団」がなんで現地に数十メートル規模の前方後円墳を作って埋葬されているのかって話ですわ。
これらの記述から「韓国史が知られていないのが問題だ」と結ぼうとしているのですが。
むしろ21世紀以降のちゃんとした研究結果を反映している感じがします。
まあ、「新羅の王である広開土王が〜」みたいな単純なミスはあるにしても。
広開土王碑文だと「(西暦404年)倭の侵攻を広開土王が退けた」ってなっているので広開土王が新羅の王とされている以外は間違っていない。
逆にしっかり広開土王碑の碑文まで研究対象になっているのだな、ってことが分かります。
三国史記を見てもさんざん「倭が○○を襲撃した」「倭の勢力に城を明け渡した」「なんとか防衛した」って記述があるのですよ。
実際に404年の記述は「帯方界まで侵攻した倭軍を撃退した」ってことですから、ほぼ現在のソウルか平壌くらいにまで倭軍は勢力を伸ばしていたわけです。
侵攻できるってことは確実に大規模な拠点を築いているってことで。
どう考えても「外交使節団」どこじゃないんだよね。
それを考えると先日見つかった「
ソウルで日本の円筒埴輪が発掘された」のもそのあたりの記述を裏付けているものにしかならないのです。
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