日本学界は碑文の「辛卯年」部分に大きな関心を示した。彼らは「倭が百済、新羅を攻撃して臣民にした」という文が碑文に出ていると解釈した。以後、これについての日本の学者たちの論文が湧き出はじめたが、ほとんどが広開土太王陵碑の「辛卯年記述」を『日本書記』の神功皇后が4世紀後半に玄海灘を渡って朝鮮半島南部地域を征服したという伝説的内容と関連して「任那日本府設立」を主張するものだった。 (中略)
この碑文の中の「百殘」と「新羅」は、日本の九州にあった「百済の分国」と「新羅の分国」のことだ。百済と新羅は朝鮮半島南部の人々が九州に渡って建てた小さな国々であり、「倭」は機内=倭の首都付近地域にあった大和、倭政府だった。「海を渡った」というのは玄海灘を渡ったものではなく、九州にあった百済と新羅の分国を打つために日本列島の内海である瀨戶內海を渡ったと見るのが正しい。
瀬戸内海は日本列島の本島と四国の間の長い内海で湖のように静かな海だ。本州の「国」や「京都」から九州に来るためには、必ずこの海を渡らなければならない。
(引用ここまで)
おー、なるほどそうきたか。
いわゆるトンデモ本のひとつである「大朝鮮帝国史」というものがありまして。
そこには「大百済帝国」という地図があります。
日本の西半分は「奈良百済」であり、黄海をはさんだ山東半島を中心として外百済が存在していた、というもの。
「大朝鮮帝国史」は全5巻フルカラーのコミックです。アメコミを描いていた作家が韓国に帰国してから歴史関連のマンガを描きはじめるようになり、その集大成だとか。
大朝鮮帝国史の表紙がこちら。

んで、大百済帝国の版図とされているものがこちら。

桓檀古記という偽書を大元としていて、古代から歴史の中心として動いてきた「輝かしい韓国史」を描いています。
おおよそ、「輝かしい韓国史」の元ネタは桓檀古記。
今回ピックアップした歴史コラムニストの「広開土王碑に書かれている『百殘』(百済)と『新羅』は、それぞれの国が日本の九州に渡り、飛び地として占領した地域のことだ」という歴史認識はこの「輝かしい韓国史」に基づいています。
それ以外だと「漢四郡は朝鮮半島ではなく、山東半島にあった」(なお日本のせい)とか「黒い山葡萄原人が朝鮮人のルーツである」とか「韓国人は朝鮮半島で発生し、中国は関係ない」といった話が語られています。
だいたいですがこうした「輝かしい韓国史」は「歴史学者」ではなく、「在野の歴史学者」によって語られます。
最近になって「いい加減にしろ」とばかりに歴史学者からクレームが出るようになったのですけども。
このペ・ジョンドクなる「歴史コラムニスト」も似たようなものでしょうね。
今週になってもう一本、歴史コラムが掲載されていまして。それがこちら
[ペ・ジョンドクの歴史紀行]「任那日本府說」(蔚山第一日報)
広開土太王碑文の記録で広開土太王が日本列島を焦土化した時期がCE396年とCE400年だ。また、宋書に出てくる記録を見ると、倭五王が宋国に使者を送った時期がCE421~479年だ。この時は倭国に百済の擔魯(訳注:百済の地方行政組織。この場合は奈良百済のような「飛び地」)があった時期であり、倭五王は百済州擔魯の王たちだった。
(引用ここまで)
広開土王碑で「広開土王が日本列島を焦土化した」ことになっているのだそうですよ。
これはつまり、倭が朝鮮半島に上陸したのではないということ。
上記のように百済、新羅の飛び地が日本の九州にあり、それを広開土王が日本列島にまで遠征して成敗した、という史観に基づいているのですね。
……まあ、草しか生えませんが。
こんな「説」を大真面目で唱える「在野の学者」がいて、ローカル紙とはいえどもそれを掲載する新聞社があるのですよ、ということで。
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