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韓国人「スミソニアン博物館の歴史書は間違いばかり」→「倭の勢力が朝鮮半島に駐留した」「大和政権が新羅、百済を制圧した」……間違ってなくない?

カテゴリ:歴史関連 コメント:(71)
米英の歴史書は間違いだらけ「広開土王は新羅の支配者」「日本が韓半島南部に任那日本府を設置」(朝鮮日報)
米国ワシントンには、スミソニアン国立博物館が分野別に幾つもあります。少し前には、スミソニアンの国立自然史博物館に行ってきました。

 スミソニアンが出版している歴史の本を買って読みました。20・21世紀の両世紀にわたるパクス・アメリカーナが世界史をどのように整理したのか、見てみたかったのです。 (中略)

そうした中、困惑してしまう間違いを見つけました。

 スミソニアンの『歴史年表(Timelines of History)』の94ページは、このようになっていました。

 「西暦370年、日本の侵略軍は韓半島南部の任那に植民地を作った(c. 370 Japanese invading force establishes a colony at Mimana in southern Korea)」

 日本でも根拠のないものだと判明した「任那日本府説」を、歴史的事実であるかのようにそのまま記していました。

 95ページは「393年、日本の大和政権が韓半島の新羅と百済を急速に制圧していった(The Yamato of Japan overrun Silla a Paekche, Korea)」となっていました。

 一部の西側の歴史学者は韓国史について専門性が不足しているのではないか-という考えを抱きました。英国の代表的な出版社の一つでスミソニアンの本も出版しているDKが、英国で2022年に出版した歴史書も、見てみるとやはり多くの問題がありました。

 DKの『世界史年表(Timelines of World History)』67ページ、西暦4-5世紀の部分を見ると「西暦404年、広開土、韓半島の新羅の支配者、日本の大和政権の侵略を撃破する(404CE Gwanggaeto, ruler of the Korean state of Silla, defeats an invasion from Yamato Japan)」と書いてありました。

 ご存じの通り、広開土王は高句麗の支配者であって新羅の支配者ではありませんでした。しかも404年は、百済と倭による新羅への連合攻撃でした。倭の単独侵略ではありませんでした。

残念なことでした。このように韓国史について誤って記述した内容が、米国立博物館の書籍のみならず国際的な出版社の本を通して伝えられているからです。これらの本は市中の書店で、またオンラインの電子書籍として手軽に購入できます。広開土王を新羅の人物と書くというのは、やってはならない誤りではありますが、単純なミスだと理解することもできるでしょう。

 しかし任那日本府説は、西暦4-6世紀に日本が韓半島南部を支配していたという根拠のない主張であって、日本の代表的な歴史歪曲(わいきょく)だと指摘されてきました。今では、日本の学界ですら破棄された学説です。
(引用ここまで)


 スミソニアン博物館が発行している「Timeline of Histroy」なる書籍に、日本(倭)が朝鮮半島に侵攻した、との記述があると朝鮮日報がお冠。
 言うても、別に「任那日本府」については「その名称は後世のものだけども、朝鮮半島南部に倭の勢力が一定数存在した」ことは歴史学者なら誰一人として否定しないと思います。
 この記述、「c. 370 Japanese invading force establishes a colony at Mimana in southern Korea」──「西暦370年に日本は朝鮮半島南部の任那に植民地を設立した」とのものですが。
 それぞれの学説によって大小はあれども、朝鮮半島南部に倭人の影響がなかったとすることはほぼないですね。

 以前、第2回日韓歴史共同研究で出された報告書にも、韓国側は「任那日本府など倭の影響は一切なかったか、あっても極小」くらいの話を出していましたが、日本側からは「当時の朝鮮半島南部には倭の影響があった」との論文が掲載されています。
 その後、朝鮮日報あたりが執拗に「任那日本府はなくなったはずだ、日韓歴史共同研究で報告書が出ている」って話をしているのですが。

朝鮮日報「任那日本府はなかった、なかったと言ったらなかった」(楽韓Web過去エントリ)

 「外交使節団だったとの説以外はすべて虚像」って言っているんですが。
 ただの「外交使節団」がなんで現地に数十メートル規模の前方後円墳を作って埋葬されているのかって話ですわ。


 これらの記述から「韓国史が知られていないのが問題だ」と結ぼうとしているのですが。
 むしろ21世紀以降のちゃんとした研究結果を反映している感じがします。
 まあ、「新羅の王である広開土王が〜」みたいな単純なミスはあるにしても。
 広開土王碑文だと「(西暦404年)倭の侵攻を広開土王が退けた」ってなっているので広開土王が新羅の王とされている以外は間違っていない。
 逆にしっかり広開土王碑の碑文まで研究対象になっているのだな、ってことが分かります。

 三国史記を見てもさんざん「倭が○○を襲撃した」「倭の勢力に城を明け渡した」「なんとか防衛した」って記述があるのですよ。
 実際に404年の記述は「帯方界まで侵攻した倭軍を撃退した」ってことですから、ほぼ現在のソウルか平壌くらいにまで倭軍は勢力を伸ばしていたわけです。
 侵攻できるってことは確実に大規模な拠点を築いているってことで。
 どう考えても「外交使節団」どこじゃないんだよね。

 それを考えると先日見つかった「ソウルで日本の円筒埴輪が発掘された」のもそのあたりの記述を裏付けているものにしかならないのです。

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ソウル周辺の遺跡から「日本の埴輪」が出土……百済時代の首都にも倭の影響があった証拠になるのか

カテゴリ:歴史関連 コメント:(89)
【単独】古代日本の権力層の墓の装飾品を首都圏で初めて発見(ハンギョレ・朝鮮語)
1500年余り前にソウルに日本から移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していたという事実が明らかになった。 最近、彼らが生きながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産土器が相次いで確認されたためだ。

地中の文化遺産を発掘・調査する機関である大韓文化財研究院は6日、現在のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年〜西暦475年)の京畿道城南市福亭洞の百済時代の官営土器窯関連遺跡から古代日本権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物「埴輪」を初めて発見したと明らかにした。 (中略)

この遺跡は福井洞393番地霊長山の麓一帯7798平方メートルの面積で確認される。 百済時代の国で運営したと見られる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城、夢村土城とわずか4〜5kmの距離なので王室が管掌しながら物品を調達される国営工房施設の一部と推定してきたところだ。 関心が集中した埴輪彫刻は2022年遺跡の廃棄物層から全レンガ、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点余りと共に混ざって出てきた。 突出した帯を付けて巻いていたり、外部の気壁の表面に一定の間隔で線を引いた特有の掻く仕上げ跡(日本の考古学用語でハケメ)がはっきりと現れる埴輪円形土器の彫刻であることが判明した。 (中略)

大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入ってきて百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と見られる」とし「墓の装飾物である埴輪製作品の実体が首都圏の百済施設跡で明確に確認されたのは事実上初めて」と話した。 2000年代初め、百済王城跡として有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片の大きさの埴輪の彫刻が石点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土情況が明確ではなく、大きな注目を集めることはできなかった。

韓日古代史を研究してきた歴史考古学界の一部の専門家たちは驚いている様子だ。 紀元前18年から475年まで存続した百済王朝の最初の都で、今日のソウル松坡区、江東区、城南一帯にあたる旧漢城地域で1600年前に外交官や職人をはじめとする倭人たちが居住して活動したことを知らせる明確な根拠が出たと評価されるためだ。

特に埴輪は4〜6世紀の日本の古墳時代の権力者、実力者の大型墓(長鼓型墓で日本では前方後円墳と呼ばれる)に欠かせない墳丘の重要装飾部材だったという点で、1600年~1500年前に古代日本の移住民が百済のソウル都に住み、特有の墓を建てて飾った可能性が提起されている。 まだ断定はできないが、この埴輪彫刻の発見で百済の首都漢城一帯に倭の職人や外交官などが移住し、居住民村があったという推論もできるようになったという分析が出ている。

これまで両国の学界は、古代韓半島で日本と直接交流した有力な対象地として全羅道栄山江(チョンラド·ヨンサンガン)一帯を挙げてきた。 この30年間、この地域で倭系移住民のものと見られる長鼓型墓が多く確認され、円筒形の他に馬と人などを形象化したハニとも相当数出土したことがある。 しかし、今回の埴輪の発見で首都圏一帯にも埴輪を墳丘の装飾物として使った倭人の墓が存在したという推論が可能になった。

百済の中央政府があった首都圏一帯の攻防で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。 研究院側は来月、正式報告書を出版する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるものとみられる。
(引用ここまで)


 埴輪が韓国のソウルで出土した、とのニュース。
 画像を見てもハケメ(刷毛目)があることからも円筒埴輪であるのは間違いない感じ。

スクリーンショット 2024-03-07 21.51.24.png
(画像引用元・冒頭記事)

 ただ、出土箇所がなんともいえない感じ。
 これまで前方後円墳が確認され、円筒埴輪が出土したことがあるのは全羅南道がほとんど。
 全羅南道は韓国南西部。
 ちなみにこのあたりは韓国では珍しく古代から稲作がさかんだったところで、倭寇も南西部の沿岸部を襲撃しているなど日本と縁のある土地柄。

 10年前には形象埴輪すらも出土しているのですが、これも南西部の栄山江流域の古墳。
 2018年には同じ古墳から人物埴輪が出土しています。


 というわけで、韓国南西部であればそうした出土品があってもなんの不思議もないのですが。
 むしろ「ああ、補強になったね」ってくらいの扱いになるんでしょうが。
 ソウル周辺で……すなわち、百済の首都であった漢城周辺でというのはだいぶ意外。
 というか、第一印象としては「え、なんで」って感じですね。

 ただ、円筒埴輪が出土した以上は、百済の首都であった漢城にもそれなりに倭の影響があったってことなんでしょうね。
 もちろん、百済と倭はつきあいが長かったこともあるので、行き来はあっても当然。
 ただ、「埴輪出土」はかなり意外。
 相当に地位の高い倭人がいた傍証になるわけですが。「漢城に?」ってなってます。

 おそらくここが現在発掘ができる北限になるでしょう。北朝鮮では発掘作業はできませんから。
 それにしても「ソウル周辺で円筒埴輪出土」はかなりの衝撃です。
 日本側がどう受け止めているのかが気になるところ。

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韓国メディア「渤海は韓国史の一部なのに、日本の東大はそれを無視して韓国を消している!」……いや、それはさすがに無理筋だと思うんだが

カテゴリ:歴史関連 コメント:(89)
タグ: 渤海 歴史関連
「中国黒竜江省、渤海」…韓国を消した東京大学渤海史 [日本の中の韓国文化財](世界日報・朝鮮語)
「現在の中国東北地方を中心に、東アジア東北部に広がっていた国である。 自国の史書を残さなかったため、その歴史には不明な点が多く、20世紀初頭以降、原田叔人をはじめ、本学の研究者らが考古学的調査を実施してきた。 都城の構造や瓦などの物質文化は、平城京や平安京と同様、唐の長安城と類似が指摘されている」。

東京大学総合研究博物館(東京大学博物館)の展示品説明の一部だ。 位置の説明だけを見ると、中国王朝を紹介したようだ。 関連遺跡、遺物をめぐっては日本の首都だった京都、奈良に触れ、日本の古代国家なのかもしれない。 実際には渤海についての説明だ。 3つの文章に過ぎない短い文だが、韓国に対する言及はない。

不愉快極まりないこのキャプションは、「日本による植◎地時代植◎史学」の成立、韓半島統治のための基礎調査を主導した日本最高の同大学が、韓国と絡んだ良くない縁を想起させる。

日本の考古学の先駆であることを自負する東京大学博物館は、展示を通じて世界各地で実施した発掘調査を誇る。 渤海調査は、北東アジア発掘調査のひとつの成果として挙げられる。 注目されるのは渤海史を韓国史と考えていないような態度だ。

瓦、仏像、金属装飾物など展示された7点(先月26日基準)の渤海遺物キャプションにも韓国はない。 遺物の名前、形態、意味を盛り込んだキャプションは「中国黒竜江省、渤海」で始まり、渤海史を知らない人なら中国王朝と連想するのにちょうど良い。 展示会のキャプションは、大体が短いいくつかの文章で構成されるが、該当機関がその遺物に対して持つ最も基本的な認識を盛り込むものだ。 また、観覧客に伝えようとする基礎知識だ。 したがって、このようなキャプションは、東京大学博物館が渤海史が韓国史の一部だという点を認めない、あるいは無視してもいいと考えるのではないかという考えを想起させる。 渤海に対する調査をさらに詳しく説明したホームページ資料も同じだ。 「北東アジア、渤海調査」というタイトルの文書だ。 渤海建国については「俗末葛(粟末靺鞨)や668年に滅亡した高句麗の末裔が関連していると知られている」とか、渤海都城の様相については「高句麗文化との連続性」などを言及している。

しかし、「1990年代末以降、主に中国と韓国の間で高句麗、渤海の歴史認識をめぐって論争が起こっている」とし、渤海史を韓国史と断定しない。 「(博物館が所蔵していた渤海の遺物である)石仏や三彩陶磁器などの正品(精品)を含む一部が中華民国(台湾)政府と中華人民共和国(中国)政府に返還された」という点を当然のことのように紹介したのも目につく。
(引用ここまで。◎は民)


 韓国メディアが「日本の東京大学が渤海を中国史であるかのようにして紹介している!」として激昂しています。
 ……いや、渤海を韓国史の一部として紹介するのはだいぶ無理がなくない?

 まあ、韓国メディアがこう言うのには理由がありまして。
 主として高句麗を中国史に組み込もうとしている中国の「東北工程」に対抗するために、高句麗の後継国家である渤海についても韓国史であると言い張る必要があるのですね。
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 渤海は高句麗が滅ぼされた後に大氏が建てた国で、高句麗と最大版図を比較してみるとこんな感じ。
 まず高句麗。
 5世紀半ばに広開土王を継いだ長寿王の頃のもの。

koukuri.png
(ソース・Wikimedia Commons

 まあ、これなら「高句麗が韓国史の一部」というのもまあ分かる。ただ、主たる領土は中国側にあったんだろうなとは思われます。
 んで、渤海。

bokkai.jpeg
(ソース・Wikimedia Commons

 だいぶ……というか西と南が削れていますかね。


 朝鮮半島はわずかに現在の北朝鮮のさらに北半分まできているかどうか。
 平壌すら含まれていないのです。
 領土の大半は中国東北部。あといまのロシア。
 これ見ても「渤海は韓国の一部!」って解説はされないよ、そりゃ。

 何度か遷都されていますが、首都はいずれも中国北東部。
 あと日本との関わりも大きくて、日本に朝貢していたのはよく知られている事実です。
 まあ、中国(唐)からの圧力を避けるために「後ろには日本がいるんだ」ってやるためと、純粋に朝貢貿易がおいしかったからですけどね。
 途中、日本側から「そんなに頻繁に来るな」って言われるくらいには日本に来てたようです。
 あと遭難した遣唐使が渤海経由で日本に帰国するなんてことも幾度かありました。

 「渤海は韓国史の一部」って言われても「いや、それはどうだろう」ってなるのが正直なところかなぁ。
 韓国の主張としては理解できなくもないけど、日本からしてみたらちょっと間抜けな主張として受け取られて当然かな、といったところです。

 なお、記事後半(引用外)は「略奪された韓国文化財を東大が『返還』ではなく『寄贈』にこだわった」ってぷんすかしてますが。
 まあ、「そういうとこだぞ」としか言えません。

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韓国の有名大学、寄贈された絵画を紛失していた……えーっと、実はいつものことです

カテゴリ:歴史関連 コメント:(81)
高麗大学博物館の「鵜の絵画失踪事件」···粗末な寄贈品の管理(韓国経済新聞・朝鮮語)
高麗大学校博物館が寄贈された遺物を紛失しても、これを2年間学校当局に隠してきたことが確認された。紛失した作品は絵画的価値の高い滄江趙涑(1595~1668)の鵜の絵(写真)で知られている。

27日、韓国経済新聞の取材によると、高麗大学博物館は2021年8月、高霊朴氏の子孫から17世紀から20世紀初頭に至る遺物を多数寄贈された。

その後、学校側は160点余りを買収したというリストを内部的に作成したが、これには趙涑の鵜の絵など価値のある品物は抜けていた。

趙涑は字と絵などにあまねく長けて「詩書画三絶(詩書画が全て優れた人)」と評価された。特に花鳥図が逸品で、カササギなど新しい絵はその中でも抜群だった。彼の作品の一部は国宝・宝物級と評価され、国立中央博物館澗松博物館なども所蔵している。

博物館は通常、寄贈を受ければ該当物品の価値を大まかに記載し、寄付領収書を発給する。博物館側は今年3月、寄贈者に領収書と寄付証書などを送ったが、ここに当然添付されるべき寄贈品リストは付いていなかった。これを疑問に思ったドナー側が調べた末、5月末にリストを個人的に入手したが、このリストには趙涑の絵などが完全に抜けていた。

誤ってそれだけ抜けたとは言い難い。寄贈者側で残りの物品はスーツケースに入れて引き渡したが、趙涑の作品は大切に思い、別の箱に入れてあらかじめ渡し、当時の現場で博物館長、学芸員らと調速の作品に関する対話を交わした。高麗大学の学芸員1人はの鵜の絵を調べ、「これであるならよく管理できた」と言及したという。

高麗大学側も作品を受け取った事実自体は認めている。高麗大関係者は「早俗のものと推定される作品を受け取ったが、現在なくなった状態という点は事実だ」とし「紛失物を探すために博物館で2万点に達する所蔵品を全て探したが見つからなかったし、管理不良に対して責任感を感じている」と話した。 (中略)

高麗大学は昨夏、関係者4人に対する監査を実施した。一人の学芸員が責任を負って辞職し、9月の定期人事で博物館長も交替された。高麗大学のイ·ウォンギュ副総長は「今年6月になって寄贈品がなくなったという事実の報告を受けた」とし「寄贈者には十分に謝罪と説明をしたと考え、警察署に紛失と盗難の可能性に対する捜査を要請した状態であり、具体的な内容は捜査を経て明らかになるだろう」と述べた。高麗大学は捜査過程で学芸員2人に1人は携帯電話フォレンジックを受け、もう1人はこれを拒否して嘘探知機検査を受けたが、特別な疑惑点は発見されなかったと説明した。
(引用ここまで)


 趙涑という有名な李氏朝鮮時代の画家、詩家、書家がいたそうで。
 名前を聞いたことがあるような……ないような。いや、ないかなー。

 日本でもその絵画とされている(伝趙涑画)ものが国立博物館に所蔵されています。
 いわゆる小倉コレクションから寄贈されたものだそうです。

 小倉コレクションは日韓併合時代に古美術品、文化財を蒐集していた小倉武之助が戦後、日本に持ちこんだもの。
 死後、かなりしてから東京国立博物館にすべてが寄贈されています。
 小倉氏が集めた絵画の作者であれば、相当な価値のあるものなのではないでしょうかね。
 知識がないのでそうした間接的な比較でしか価値を計れないのですけどね。

 で、高麗大学がその趙涑による絵画を寄付されて、紛失した……と。
 いや、いつものことじゃない?
 こうした文化財に対する意識の低さは、本当にいつものことでしかない。


 「国宝1号」としている南大門が消失して、修復された際のごたごたは言うに及ばず。

南大門復元事業で「伝統技法に則って復元」するはずがペンキと接着剤を使用……業者に10億ウォン以上の賠償金支払い命令(楽韓Web過去エントリ)

 それ以外にもこうした話はいくつも枚挙に暇がありません。

 政府が使用する国璽が6年で壊れたので、新たに製造してもらったところ。
 「国璽に使う」と支給されていた金1.2キロを制作者が横領
 その制作者は金をばらまいて「伝統技法所有者」を名乗っていただけの素人。
 完成した国璽は釘だかくさびだかがはみ出ているようなしょうもない代物。
 あと大韓民国の初代国璽も紛失

 あと李氏朝鮮時代の国璽・印章はことごとく紛失
 マッカーサーが日本から取り戻した国璽も紛失。

 新羅時代のサイコロが発掘されたので乾燥させようとして消失させたりとか。
 資料を展示していたのだけども、(紫外線が含まれている)一般の蛍光灯を使っていたので文字が読めなくなるとか。

 韓国の文化財に対する意識ってこんなもんなんですよ。
 観世音菩薩坐像も韓国に「返還」されていたらこんなんなってたでしょうね。

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ドイツの博物館が「韓国の乳を放り出した李氏朝鮮時代の女性」の写真を展示→韓国国会議員「日本の陰謀だ、撤去しろ!」

カテゴリ:歴史関連 コメント:(133)
「息子を産んで自慢」…胸をさらけ出した朝鮮女性の写真、独博物館から撤去(中央日報)
20日(現地時間)、ドイツ・フンボルトフォーラム内にあるアジア芸術・民俗学博物館は韓国遺物特別展「アリアリラン」から「水を汲む女性」という説明書きがついた胸をはだけた朝鮮女性の写真を撤去した。

この写真は、ドイツ北京公使館に勤務していたアドルフ・フィッシャーが1905年に韓国を訪問した時に撮影された写真と推定されるという説明が添えられて展示されていた。1907年日本人が運営する京城写真館が発行した韓国風俗風景アルバムに収録された。

写真は「誇らしい母たち」というタイトルで、「朝鮮時代中期から女性が男の子を産めば非常に自慢して授乳する胸をあらわにし、男の子を産んだことを周囲に見せた」と記載されている。

韓国国会外交統一委員会所属の金炅俠(キム・ギョンヒョプ)共に民主党議員は在ドイツ韓国大使館の国政監査で「日本人がスタジオでモデルを使って撮影した胸をさらけ出した朝鮮女性の写真を、まるでドイツ人が撮影した写真のように展示した」とし「朝鮮女性を対象化して朝鮮文化が劣等で未開であるというイメージを作り出すために日本が意図を持って製作した写真」と指摘した。
(引用ここまで・太字引用者)


 ドイツのフンボルトフォーラムで行われている韓国遺物特別展なる展示会で「子供を産んだ女性が胸部を出している写真」が展示されていたそうですわ。
 これ、李氏朝鮮時代の風習です。
 跡継ぎの男児を産んだ女性が誇らしく「授乳している証拠」として放り出していたものですね。

 一時期、韓国国内でこの風習をなかったものにしようとするムーブがありました。
 どうも「こんな風習などなかった」としたかったらしいですね。
 今回の記事でもその「風習はなかった」とのイメージが反映されています。


 で、さらにこの「風習がなかった」論の言い訳として、「日本が韓国の風習を貶めるためにこんな格好をさせた」ってものがありまして。
 見事に今回も件の議員が「日本の陰謀だ」って話をしてます。

 実際にあった風習を否定するっていうのは「過去からすべて韓国の歴史は輝かしいもの」っていう意識があるからでしょうね。
 しかし、撤去までさせるか……。

 ちなみに今回の展示会があったフンボルトフォーラムですが、韓国関連の展示内容がしょぼいと韓国側が文句をつけ続けてきた博物館です。
 日本、中国の展示スペースと比べて1/10しかない、もっと韓国の国格にふさわしい展示にしろって言い続けてました。

ドイツのアジア博物館、韓国の扱いを日本・中国の1/10にしてしまう……さらに「え、ずっと中国の属国でしたよね?」と韓国の逆鱗に触れてしまう(楽韓Web過去エントリ)

 それもあって逆鱗に触れたってとこかなー。
 でもま、この「乳放り出しおばさんなんてなかった」話ができてよかった。

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韓国人「楽浪郡は朝鮮半島になかった。我々は中国人に支配されたことなどない」……ああ、はいはい、アレですね

楽浪国と楽浪郡はどこにあったのだろうか(慶南毎日新聞・朝鮮語)
三国史記新羅本紀朴赫居世30年(西暦前27年)4月大晦日に日食があった。楽浪が兵を従えて侵犯した。辺境の民たちが夜も門を閉めずに野原には穀物が積まれていることを見て、互いに言うには「この地方の民たちは互いに盗み方を知らないから道がある国だと言える。私たちが密かに兵士を連れてきて襲撃するということは泥棒同然なので恥ずかしいことだ」と言って帰ってきた。

この当時、日食を観察して記録するほど文化がかなり発展していた。にもかかわらず、まともに国家体系が整っておらず、文化も発達していない小さな国が新羅だと認識するのは植民史学カルテルによる歴史教育の結果だ。 (中略)

中国の『後漢書』に高句麗太祖王(西暦146年)が西安平を襲撃し、大方県令を殺して楽浪太守の妻子を捕まえたという記録がある。西安平が鴨緑江沿いの丹東にあったと中国では東北工程に基づいて主張し、国内古代史学界もこれに従っている。

しかし、東北工程以前の中国史料を学術的に研究した地球人の古代史勉強部屋によると、西安平は河北省古美亭市巨摩河流域だという。植民史学カルテルによって楽浪郡平壌説を守るために東北工程に協力した学説よりはるかにまともな歴史研究結果だ。 (中略)

楽浪国と楽浪郡は別のところにあったにもかかわらず、植民史学は楽浪国は説話のようなものと認識し、平壌に韓武帝が建てた楽浪郡が無条件にあったと主張する。植民地史観の枠組みに合わない三国史記の初期記録に不信を抱いた。しかしYouTubeで「KBS HD歴史スペシャル-失われた王国、百済の風納土城」を見れば、三国史記初期記録が正しいということを歴史遺物と遺跡が証明してくれる。

楽浪国と楽浪郡に関する正しい歴史事実を教科書に載せて教育しなければならない。歴史主権と領土主権をきちんと探すことは、中国の東北工程に対処して未来の統一に備えることだ。そのためには植民史学カルテルを克服しなければならない。
(引用ここまで)


 えー、韓国では「輝かしい韓国の歴史派」と「歴史資料から見た学者」がいまして。
 あ、前者を学者としていないのは(まともな)歴史学者はほぼゼロであるためです。
 韓国では「在野の学者」としていますね。

 どのような主張をしているかというと── ・「三国時代は4世紀以降というのは嘘(高句麗・新羅・百済のすべてが紀元前に建国している)」
・「楽浪郡は朝鮮半島に存在していなかった」
・「檀君朝鮮は存在したが、箕子朝鮮、衛士朝鮮は存在していない(もしくは中国人王朝ではない)」

 これらの歴史観に反するものはすべて「植民史学の輩」「植民史観学者」として糾弾される対象になるのです。
 輝かしい韓国が中国に支配されていたことなどなかったのだ、とするものですね。



 その余波として「大百済帝国」なるものがあったなんて説に飛び火しています(上の画像はその最大版図とされているもの)。


 で、それらの学説の中でも力強く生き続けているのが「楽浪郡は平壌になかった説」です。
 楽浪郡を詳細に見れば中国人による支配であることに間違いはありません。
 なので、楽浪郡自体の存在を否定しているのですね。

 いや、正確にいうと「楽浪郡はあった。ただし、中国の遼東半島や北京にあったのだ」とする説です。
 楽浪郡が中国人支配の地であったことは考古学的に間違いない事実。なので「そんなものは朝鮮半島になかった」としているのです。
 ちなみに平壌あたりからざくざく出てくる楽浪郡関連の出土品は「中国の楽浪郡から持ってきた戦利品が溢れるほどにあったのだ」との設定になってます。

 昨今の中国による東北工程に対抗するために、この「楽浪郡中国説」とでも呼ぶべき異説……というかトンデモ史観は力を持っているわけです。

韓国歴史学者「楽浪郡は朝鮮半島になかった。中国に反論できなくなるからなかったことにするのだ」(楽韓Web過去エントリ)
楽浪郡等の漢四郡は朝鮮半島に存在しなかった。あるというのは中国や日本の歴史歪曲に過ぎない!!(楽韓Web過去エントリ)

 2023年になってもまだまだこの楽浪郡中国説を語る輩がおり、かつそれに反対するものを「植民史学カルテルだ」と糾弾しているわけですよ。
 まあ、韓国人に受け容れられているかというとそうでもないのですが。
 少なくとも「一定数は『本当の歴史、真実の歴史』を信じている」ってところです。
 日本でいえば竹内文書や東日流外三郡誌、宮下文書を正史と信じているようなもんですね。

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韓国メディア「日本最古の文字とされたものが油性ペンで書かれたものと判明」「自慢しようとしたのに国際的な恥をかいた」と大はしゃぎ

カテゴリ:歴史関連 コメント:(86)
タグ: 歴史関連
自慢しようとして「国際的恥」日本最古文字? 実体は油性ペン跡(毎日経済・朝鮮語)
日本最古の文字記録という期待感を一身に受けた2000年前、黒い痕跡の実体が油性ペン跡として判明した。

連合ニュース、共同通信、NHKなどによると日本の奈良県が設立した橿原考古学研究所の岡見知紀主任研究員は、1997年に島根県松江市発掘遺物に書かれた黒い線は油性ペン跡だと10日に開かれた日本文化財学会で発表した。 (中略)

黒い痕跡は墨で書かれた文字である可能性があると明らかにした。

事実なら、日本で発見された最も古い既存の文字記録より200~300年も先のことだ。日本のメディアも注目した。

松江市当局は出土品の区分情報を書いた紙からインクが転写された可能性があると文化財をさらに注意して扱うと明らかにした。
(引用ここまで)


 松江市で見つかったすずりになんらかの文字が書かれており、日本で最古の文字ではないかともされていたのですが。
 実際にはラベル等の油性ペンが転写されたかなにかだったとの結果に終わりました。

「日本最古の文字」実はペン汚れ…ラベルなどの文字が転写か(読売新聞)

 考古学で資料のコンタミはけっこうあることで「最古の米が出土した」とかされても眉につばをぬったくって見なければならないというのが実情。
 「縄文時代の米か?」とされた炭化米が近代のものであったなんてこともありました。

 まあ、こうして素直に発表されたのであれば健全性の証明ともなりますかね。
 ただ、このニュースを韓国がかなり多く報じていまして。


 20近くあるかな?
 通信社である聯合ニュースが報じているので、実際にはさらに多くのメディアが報じているでしょうね。
 で、面白いのが「歴代級妄想」とか「自慢しようとして『国際的恥』を」とかいう見出し。
 なるほど、韓国ではこうしたコンタミが「自慢しようとして行ったもの」と認識されるのですね。

 ま、実際に韓国では国宝274号事件というものがありまして。
 「李舜臣が使っていた」とされる砲門が海底から発見され、国宝指定されたのですが。
 捏造品だったというオチに終わっています。

 韓国人は遺物捏造においてそういった経緯を持っているので、「自慢しようとしたものの」というような見出しになるのでしょう。
 人間というものは自分の持っている物差しでしか物事を計れないものですからね。

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韓国人「高句麗の王が日本を焦土化し、百済・新羅も日本に領土を持っていたのだ」……Ω ΩΩ<な、なんだってー

広開土太王陵碑「辛卯年」記述の解釈(蔚山第一日報・朝鮮語)
日本学界は碑文の「辛卯年」部分に大きな関心を示した。彼らは「倭が百済、新羅を攻撃して臣民にした」という文が碑文に出ていると解釈した。以後、これについての日本の学者たちの論文が湧き出はじめたが、ほとんどが広開土太王陵碑の「辛卯年記述」を『日本書記』の神功皇后が4世紀後半に玄海灘を渡って朝鮮半島南部地域を征服したという伝説的内容と関連して「任那日本府設立」を主張するものだった。 (中略)

この碑文の中の「百殘」と「新羅」は、日本の九州にあった「百済の分国」と「新羅の分国」のことだ。百済と新羅は朝鮮半島南部の人々が九州に渡って建てた小さな国々であり、「倭」は機内=倭の首都付近地域にあった大和、倭政府だった。「海を渡った」というのは玄海灘を渡ったものではなく、九州にあった百済と新羅の分国を打つために日本列島の内海である瀨戶內海を渡ったと見るのが正しい。

瀬戸内海は日本列島の本島と四国の間の長い内海で湖のように静かな海だ。本州の「国」や「京都」から九州に来るためには、必ずこの海を渡らなければならない。
(引用ここまで)


 おー、なるほどそうきたか。
 いわゆるトンデモ本のひとつである「大朝鮮帝国史」というものがありまして。
 そこには「大百済帝国」という地図があります。

 日本の西半分は「奈良百済」であり、黄海をはさんだ山東半島を中心として外百済が存在していた、というもの。
 「大朝鮮帝国史」は全5巻フルカラーのコミックです。アメコミを描いていた作家が韓国に帰国してから歴史関連のマンガを描きはじめるようになり、その集大成だとか。
 大朝鮮帝国史の表紙がこちら。

History_of_Empire_of_Korea.jpeg

 んで、大百済帝国の版図とされているものがこちら。

historyofempireofkorea_greatkudara.jpeg

 桓檀古記という偽書を大元としていて、古代から歴史の中心として動いてきた「輝かしい韓国史」を描いています。
 おおよそ、「輝かしい韓国史」の元ネタは桓檀古記。

 今回ピックアップした歴史コラムニストの「広開土王碑に書かれている『百殘』(百済)と『新羅』は、それぞれの国が日本の九州に渡り、飛び地として占領した地域のことだ」という歴史認識はこの「輝かしい韓国史」に基づいています。
 それ以外だと「漢四郡は朝鮮半島ではなく、山東半島にあった」(なお日本のせい)とか「黒い山葡萄原人が朝鮮人のルーツである」とか「韓国人は朝鮮半島で発生し、中国は関係ない」といった話が語られています。


 だいたいですがこうした「輝かしい韓国史」は「歴史学者」ではなく、「在野の歴史学者」によって語られます。
 最近になって「いい加減にしろ」とばかりに歴史学者からクレームが出るようになったのですけども。
 このペ・ジョンドクなる「歴史コラムニスト」も似たようなものでしょうね。
 今週になってもう一本、歴史コラムが掲載されていまして。それがこちら

[ペ・ジョンドクの歴史紀行]「任那日本府說」(蔚山第一日報)
広開土太王碑文の記録で広開土太王が日本列島を焦土化した時期がCE396年とCE400年だ。また、宋書に出てくる記録を見ると、倭五王が宋国に使者を送った時期がCE421~479年だ。この時は倭国に百済の擔魯(訳注:百済の地方行政組織。この場合は奈良百済のような「飛び地」)があった時期であり、倭五王は百済州擔魯の王たちだった。
(引用ここまで)

 広開土王碑で「広開土王が日本列島を焦土化した」ことになっているのだそうですよ。
 これはつまり、倭が朝鮮半島に上陸したのではないということ。
 上記のように百済、新羅の飛び地が日本の九州にあり、それを広開土王が日本列島にまで遠征して成敗した、という史観に基づいているのですね。
 ……まあ、草しか生えませんが。

 こんな「説」を大真面目で唱える「在野の学者」がいて、ローカル紙とはいえどもそれを掲載する新聞社があるのですよ、ということで。

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