「1992年韓国と台湾が断交した時、ちょうど大学を卒業した状況だった。事実、韓国が明洞(ミョンドン)にある大使館を中国に譲り渡した時、多くの台湾の人々が傷ついた。多くの人々が韓国を観光する時、明洞で中国大使館を見ながら『これはもともと私たちのものだったのに』と思ったという」直前の王氏は穏やかだった。ところが突然「傷」とは。しかしそう言うだけのことはあった。
過去、韓国は台湾は血盟以上の関係だった。初めは抗日、その後は反共を共にした。断交の時の台湾政府の抗議文の一部だが、すべて事実だ。「1919年上海臨時政府樹立後、対日本抗争でも中華民国もまた厳しい状況にもかかわらず、韓国臨時政府を積極的に支援してきた。日本との戦争後、韓国民の安全確保と帰国を助け、生活費まで支援したことがある。1943年カイロ宣言で蒋介石総統が韓国の自由独立を主張して朝鮮独立条項が挿入され、両国修交後、50年代初めは韓国が糧食不足で難しい状況に直面した時、金信(キム・シン)大使の要請で蒋総統が食糧を支援したこともある」 (中略)
韓国戦が勃発するやいなや派兵意思を明らかにしたのは台湾だった。米国の持続的な反対で実現はしなかったが。
中国の台頭以降はもちろん変わった。日本(1972年)、米国(1979年)が中国と修交して台湾とは断交した。韓国は盧泰愚(ノ・テウ)政府時の92年8月だった。我々がアジア圏で最後まで修交国だったから義理があったとはいうが、台湾は首を縦に振らないだろう。我々が終盤までしらを切っていたからだ。盧大統領は5月にも「新友を得るために旧友を捨てるようなことはしない」と言った。断交を数日後に控えて台湾大使に「韓中間の実質的進展(substantial progress)がある」と言質を与えた。内心、台湾が明洞大使館を売ってしまうのではないか、盧大統領の任期内の韓中修交と9月末訪中に影響を及ぼすのではないだろうかという心労焦燥だけだった。日本や米国が高官を送って事前説明をしたこととは違っていた。しかも中国も7月中旬、金日成(キム・イルソン)に説明した。
外交官(ノ・チャンヒ)の述懐だ。「そのとき私たちがどんな話をしてどんな行動をしても台湾の不満と非難を避けることはできないことだった。しかし、振り返ってみると台湾にとってそこまで深い裏切りを感じさせ、その後長い歳月が流れても円満な関係を回復できなくなったことに対しては私たちの立場でも反省の余地がなくはない。問題は私たちがもう少し早くに台湾側に事前通報して、もう少し真剣に将来の問題に対して協議する姿勢を示すことができなかったところにあった」。実際、両国間の航空路線が復元されるまでに12年という時間を要した。
(引用ここまで)
韓国に対して台湾人が「台韓断交の際に我々は傷ついた」と述べた。
しかし、そう言われてもしかたないことをしていたのだ、と韓国側が語っているニュース。
記事中にあるように盧泰愚大統領は寸前まで「新たな友を得るために古い友を捨てることはない」と語っていたのですよ。
そこまで言っておいて、8月に中国と国交を開いて台湾と断交。
その上、なんの水面下での交渉もなくいきなりの断交。
日本の日台断交もあまり褒められたもんじゃないですが、それでも事前の説明を経て民間外交を開いています。
日本台湾交流協会をすぐに開いていることでも分かるように、ですね。
日本の場合は台湾にも配慮をする、という方向性があったのですよ。
中国が「日航を台湾に乗り入れさせるな」って申し入れがあったあとに、台湾に就航させるために日本アジア航空を設立したことなんかもその一環ですね。
韓国の場合、本当にだまし討ちで「はい、明日から明洞の大使館受け渡して。中の備品も全部中国のものね」っつーて裸で追い出したレベル。
記事にあるように大韓航空は断交のあった92年から12年に渡って就航できませんでした。
2000年に大韓航空機のチャーター機が飛んだことがニュースになったほどでした。
台湾で行われた2013年のWBC1次リーグの台湾−韓国戦で「棒打高麗・往東京」、高麗(韓国)を倒して東京に行こうってプラカード(非オフィシャル)が配られて使われていたことがあるのですが。
<WBC>「韓国を打て…」、台湾の度を超えた応援(中央日報)

(画像引用元・スポーツ東亜から画面キャプチャ)
当時、「ああ、こんなのが配られて、嬉々として使われるくらいにはまだまだ恨み骨髄に徹しているってことか……」って感慨深かったですね。
台湾には根源的な韓国への恨みがあるのだな、ということは知っておいてもいいと思います。
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