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韓国でまともな報告書も出されなかった最大級の前方後円墳、30年後にようやく副葬品を展示……ただし、解説はほとんどなし

全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?(ハンギョレ)
「調査に行った墓が盗掘されていました!」

 学芸員のソン・ナクチュン氏は青ざめて電話をとり報告した。彼の頭の中は、少し前に目撃した、古代の墳墓の片側に開けられた盗掘の穴の惨状でいっぱいだった。30年前の1991年3月26日午後、ソン氏を始めとする国立光州(クァンジュ)博物館の職員たちは、全羅南道の咸平礼徳里(ハムピョン・イェドクリ)の丘にある6世紀初めの大型墳墓を測量するために向かった。7年前の1984年に発見された新徳古墳1号墳だった。古代日本特有の前方後円墳、つまり前方は四角で後方は丸い、鍵穴あるいは長鼓型の墳墓形式であり、その年の朝鮮半島における前方後円墳の最初の発見事例として報告された海南長鼓峰古墳とあわせて、学界の特別な注目を集めた。しかし、7年が経過しても実測さえ行われずに放置され、学界では正体をめぐる噂だけが広がった。事情を知る博物館の人々が溜まった宿題をするかのように実測を行うために向かうと、数日前に暴かれた盗掘の穴を見つけたのだ。 (中略)

 新徳古墳には、朝鮮半島の前方後円墳のなかでは最も多くの副葬品が残っていた。博物館も盗掘後の9年間に体系的な調査を行い、相当な研究成果を確保した。しかし、30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった。理由はいわゆる「倭色」のためだ。二つの山の形の模様を立てる土台を着せた金銅冠や環頭大刀、三角形の鉄帽など、韓国と日本の学界ですぐに倭系だと同意する遺物が続々と明らかになると、4~6世紀に日本を統一したヤマト政権が任那日本府を設置し朝鮮半島南部を支配したとする植民地史観の歴史家や日本の極右の主張の根拠として悪用されるだろうという懸念が生じた。朝鮮半島の前方後円墳の研究も不十分な状況であり、公開した場合、日本の学界と論戦する相手になるのは難しいという心配もあった。

 そのような事情を考えると、7月19日から国立光州博物館で行われている新徳古墳特別展「秘密の空間、隠された鍵」(24日まで)と一歩遅れての報告書の発刊は、時すでに遅しだが、嬉しい知らせだ。朝鮮半島の前方後円墳についての初の企画展を設け、出土品を学界に全面公開する場まで用意したのは、考古学史上、意義深い事件だ。学界の研究能力が成熟したことを教えてくれるものだ。 (中略)

 そのような前方後円墳が、全羅道の西南海岸で現在までに14基確認されており、中心格である新徳古墳から、なぜ倭系の金銅冠や最高級品の刀が中心的な副葬品として出てきたのかについては、論争になっている。数が少なく期間も5世紀末から6世紀初めの50年に過ぎないが、被葬者が倭系の実力者だと解釈する余地が大きい。日本の学界で、ヤマト政権が朝鮮半島に影響を行使したという推論に飛躍されることもありうる。廃棄された任那日本府説をあえて提起する学者はいないが、長鼓型墳墓の研究成果の公開は、日本の学界との解釈の摩擦を呼ぶ可能性が高い。韓国内の学界も墓被葬者をめぐり、倭人説と現地人説、百済人説が交錯している。墳墓の形と構造、中心的な副葬品は倭系だが、もう一つの手がかりであるコウヤマキ製の木棺の遺物は、百済高位層の葬法だからだ。

 博物館の展示は、もっと積極的な解釈と説明の場を設けられなかった限界も示している。金銅冠と刀と大量の土器、棺材をずらりと並べて置いている遺物報告の形式に留まっているという話だ。前方後円墳については、韓国と日本の学界での議論がなぜ大きくなったのか、任那日本府が及ぼした影響は何であるのかなどについて、歴史的な経緯を詳細に解き明かし説明していない点がぎこちない。史料不足もあるが、長期的に落ち着いてファクトを蓄積し論議していくには、大衆に前方後円墳の歴史的実情を十分に伝え、被葬者の議論を進めていくべきではないだろうか。
(引用ここまで)


 これは面白い。
 見つかってから7年間、完全に放置されていた咸平礼徳里の新徳古墳が盗掘され、慌てて調査されたものの30年間、論文も出なければ報告書すら出ない。
 副葬品が展示されたこともなかった。
 なぜなら日本の考古学者との論争が怖かったから。

 それでも今回はようやく報告書が発刊され、国立光州博物館での展示が決まったと。
 ハンギョレでは「韓国の考古学会の成熟を示すものだ」としていますが、それだったら展示の際にちゃんと「倭系の副葬品である」という解説を出すべきだと思いますけどね。
 ま、そんなことはできないでしょうけども。
 韓国では「任那日本府」は完全に消滅した、とされています。
 記事中にもそのような話がちらと出てますが。
 かつて日韓歴史共同研究委員で韓国側の研究者から「任那日本府はなかった」とする論文が提出され、日本もそれを認めた……という設定になっているのです。
 実際には日本側からは「任那日本府という名称は後世に作られたものだが、日本の実体的な影響が韓国南部に存在した」という話が出ているのですが完全に無視。


 年に1度くらいのペースで日本から「任那日本府」やその類いの話が出ると、「日韓歴史共同研究委で否定されただろ!」って言い出すというパターンが定着しています。
 控えめにいって曲解。はっきり言ってしまえば捏造です。

 ま、それはともかく。
 日本側の調査もさせてほしいものですね。
 記事の写真にあるように完全に前方後円墳。すぐ近くには韓国でおなじみの土団子墳墓もあるようですが。
 比較検討とかもできるだろうになぁ。

 実際には朝鮮半島から渡来人、帰化人が日本に来ていたように、日本からも朝鮮半島に渡っていて影響を及ぼしていたということなのですけどね。
 日本書紀、中国の正史、朝鮮半島の三国史記にも「朝鮮半島南部に倭は進出していた」と記されているように。あと広開土王碑とかも。
 すべての資料が一点を指し示しているのに、韓国だけが無視しようと努力しているのですよ。 

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